私は理性や自分の考えに基づいて自分の取る行動を選んでいると思っていましたが、案外そうではないことを教えてくれる本があったので紹介します。
大学で心理学や宗教学の教鞭をとり、現在はペンシルベニア大客員研究員である科学ジャーナリスト、ロバート・ライトによる、マインドフルネスやブッダの教えに関する著作です。
内容は多岐にわたりますが、心が行動をいかにコントロール「できていないか」を説明しているのは「モジュール仮説」の一節です。
モジュール仮説
これを説明する部分をいくつか引用してみます。
人間の心はたくさんの専門化されたモジュール−状況を判断して対象するための機能単位−からなっていて、人の行動を決定づけるのはこうしたモジュールの相互作用だ。そして相互作用の大半は本人が意識することなく起きている。(p.110:以下ページは早川書房2018年初版のものなので、ハヤカワ文庫NF版とはページが異なります)
進化心理学
進化心理学の観点からは、次のような説明もあります。
“心は少しずつひとかたまりごとにつくられ、人類が新しい試練に直面するたびに新しいかたまりが追加されてきた。(p.110)”
嫉妬-心の暴君
モジュール仮説の分かりやすい一例として、嫉妬の例が挙げられています。
性に関する嫉妬の感情は、心理的メカニズムを制御するプログラムを戦略的に動員するために特別に設計された組織的な動作モードだ。制御プログラムを動員することで、露呈した不貞に対処する態努をそれぞれの心理的メカニズムが整える。生理的プロセスが暴力……などへのそなえをかためる。ライバルを思いとどまらせる、痛めつける、殺すなどの目標が明確になる。パートナーを罰する、思いとどまらせる、捨てるなどの目標が生まれる。もっと他人に負けない魅力を身につけてべつの恋愛相手を引きつけたいという願望が生まれる。記憶が活性化して過去を分析しなおす。自信のあった過去の評価が疑いに変容する。異性(というより人間)全般への信頼性や頼りがいの評価がさがる場合もある。関連する不名誉プログラムが起動して、(想像であれ現実であれ)社会にあたえた弱者という印象に逆らうためにおおやけの場で暴力や制裁の行動に出る機会を探そうとさえしかねない。あげればきりがない。(p.122)
穏やかでないですが、確かに心が乗っ取られる瞬間は、あるかもしれません。
感覚>自我
ここでいうモジュールというのは、感覚によって引き起こされる心理状態ともいえます。
これは「自我」が「選択」することで生じる心理状態ではない。心理状態は感覚が引き金になって導かれる。「自我」はたてまえとして感覚にアクセスできることになっているものの、その感覚に気づかないこともあるし、いつのまにか新しい心理状態になってはじめて気づくこともある。(p.128)
錯覚
もし変遷のただなかでずっと変わらないと見なされるもの、時を経てもしっかりと持ちこたえ本質的に不変なものがあるとすれば、錯覚こそがそれだ。CEOや王がいて、意識ある「私」がそのCEOや王だと感じる錯覚はしぶとい。(p.128)
制御される錯覚
危険を誇張する錯覚が、よく知らない地区に足を踏み入れたときに、立ち去る行動を取らせて、身を守ることにつながる場合もあるし、他人からのコントロールに使われる場合もあるようです。
政治家はこれと同じ心の傾向を刺激して、戦争や民族対立につながりかねないような脅威を私たちに過剰に読み取らせようとする。(p.130)
コントロールを取り戻す手段としてのマインドフルネス瞑想
感覚は、錯覚をもたらすだけでなく、それまでと違うマインドセットを呼び起こし、知覚や性向をしばらく変えてしまうかもしれないとのこと。それに対応するにはどうすればいいのでしょうか。
仏教思想と現代の心理学はつぎの点に意見が収束している。人生には采配をとる単一の自我やCEO自己は存在しない。一連の自己たちが順番に采配をとり、ある意味でコントロールをにぎっている。自己たちがコントロールをにぎるのに感覚を利用しているなら、状況を変える一つの方法は、日々の生活で感覚が演じている役割を変えることだ。マインドフルネス瞑想ほどそれにふさわしい方法を私はほかに知らない。(p.131)
私は、取りつく島のない自分の気持ちへのアプローチとしてマインドフルネスに興味を持っていましたが、自分の行動にしらないうちに多大な影響を与えている感覚との付き合い方を考えるうえで、マインドフルネス瞑想は役に立ちそうです。
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