『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』

心 Spirit
ユーザーイリュージョン
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当サイト「マインドフルネス・瞑想でとらわれから抜け出す」の「雑念の仕組み」でも取り上げた『ユーザーイリュージョン―意識という幻想』という本をまとめてみます。

本書の内容を強引に一言で言うなら、「意識が謙虚に自分の限界を認め、無意識と共存するならば、無意識に委ねられた崇高なる活動を生み出すことができ、世界を危機から救うことにも繋がっていく」 と言えるでしょうか。

参考文献を除いても518ページのボリュームなので、一言で言うのはおのずと無理があります。なので、以下に1章ずつまとめてみます。(太字はサイト管理人による)

■第一部 計算

第一章 マックスウェルの魔物

エントロピーは増大して、熱の差異は均一化し、エネルギーは取り出しにくくなるという熱力学の第二法則を出しぬいて、利口なマックスウェルの魔物は、一つの部屋の中に仕切りを設け、そこにある窓の開け閉めを通して、速度の速い分子だけを右の部屋に入れ、遅い分子を通さないようにすることで熱の差異を作り出し、エネルギーを生み出し、永久機関を作れる。

第二章 情報の処分

分子が右にあるか左にあるかを計測するコストは「ビット」という情報の最小単位として定着した。

魔物が情報を手に入れることにコストがかからないとしても、計測を繰り返すためにメモリを空にするのに、熱力学的なコストがかかる。

魔物が 、世界中のコンピューターを合わせた10の16乗ビットの記憶容量を持つとして、分子1つにつき1ビットの情報しか必要としないとしても、空気1g中のエントロピーを千万分の1%減らす前に、計測値を保管する場所がなくなる。

魔物は覚えたことを忘れければないが、それには働いた分以上のコストがかかる。

情報とは、大方のイメージと違って無秩序のこと。

どの分子がどの位置にいるか、というのは一般にはあまり重要なことではないが、情報としては多い。

重要なのは「すべての分子は左側の部屋に入っている」といった単純な記述。これは1ビットしかない。

面白い知識は簡潔にまとめられたもの。途方もない洞察がほんの数行の方程式に凝縮されたようなもの。

第三章 無限のアルゴリズム

チューリング・マシーン

1935年に22歳のアラン・チューリングが思い浮かべた、無限の記憶を持つ単純な論理機械。どんな算術問題でも解ける万能機械。

この機械にも到達しえない数量があった。アルゴリズムがあまりに不可解な場合、機械がその数に行き着くかどうかは、実際に行き着くまでは判断のしようがない。そこには無限の時間がかかるかもしれない。有限の時間内では、知りようがない。

第四章 複雑性の深さ

完全な無秩序はつまらない。無秩序自体が物語っているもの以上のことを語りようがない。完全な秩序も、同じ。結晶中の原子の格子のように、厳密な配置パターンの繰り返しで、言うべきことはたちまち言い尽くされる。第三の可能性、それが複雑性。

論理深度。メッセージの価値は、その発信者が行ったであろう数学的作業あるいはその他の作業の量であり、それはまた、メッセージの受信者が繰り返さずにすむ作業の量でもある。7分おきに走るバスが、ターミナルを発車して12分で近所のバス停に到着するとき、始発が5時にターミナルを出て今が5時半だとすると、次のバスはいつバス停へ来るか。5時34分だが、計算すると時間がかかる。急いでいる時には、誰かが計算しておいてくれたら助かる。受け取った情報に意味があるから。

対象物の深さは、それが生み出される過程で処理された情報量を表す。Amazonのサイトで多くのレビューアーが掲載している記述には深度がある。

■第二部 コミュニケーション

第五章 会話の木

明白な形で処分された情報を〈外情報〉とする。メッセージの情報量からだけでは、どれだけの〈外情報〉を伴っているかはわかならい。コンテクストを理解して初めてそれがわかる。送り手は自分の頭にある情報を指し示すように、メッセージの情報を作り上げる。

二分木という、試合のトーナメント表を逆さまにしたような、上に行くほど分岐していくもの。例えば馬にまつわる経験、思考、記憶、夢、感情、馬そのものなどが一番上の分岐先にあるとすると、それらの情報を捨て、一番下に「馬」という言葉に集約して相手に伝える。すると相手は受け取った「馬」という言葉を展開して、様々な馬のイメージを呼び起こす。

第六章 意識の帯域幅

ツィメルマン教授によると、視覚の総帯域幅は1000万ビット/秒、次に多いのが触覚の100万ビット/秒。それに対して意識による感覚知覚プロセスにおける情報量の最大値は約40ビット(おそらくは16ビットを下回る)。受け取った情報を意識が知覚できるようにを処理するのに必要な脳のチャンネル容量を、キュプフミュラーは神経細胞の数から毎秒100億ビットと計算した。おかげで技術を習得して自動的に行えるまでになると、無意識のうちに膨大な量の情報を処理できるようになる。

第七章 心理学界の原子爆弾

閾下(サブリミナル)知覚の研究は、「意識では知覚されないが存在するだけで人の購買意欲をそそるメッセージ」というものが大衆から反発されて、下火になった。

しかし閾下知覚は存在する。電話をかけるとき、100もの電話番号を思い出すのではなく、相手の番号を思い出せたら便利だ。意識が精巧なのは、何が重要なのかを知っているからだ。しかし、それを知るための情報の仕分けや解釈は意識されない。閾下での知覚と情報の仕分けこそ、意識を支える影の立役者なのだ。

第八章 内からの眺め

人間の網膜には視細胞が存在しない「盲点」があるが、周囲と同じような情報で埋め合わされて気がつくことがない。私たちは、外の世界を生のデータとしては経験しない。意識が外界を経験するはるか以前に、感覚情報は無意識のうちに処分され、物事の解釈がすんでしまっている。私たちが現実を経験するときは、外界で起きていることを自分でシミュレートし、それを経験している。

■第三部 意識

第九章 〇・五秒の遅れ

自発的に手を動かす時の脳波を測定すると、実際の動作に先立って「準備電位」が発生する。自発的行為を実行しようという意図を意識するのは、脳がその決定を実行し始めてから0.5秒たった後になる。これは日常の体験と矛盾するが、主観的な時間の繰り上げが起こり、脳が無意識に反応した瞬間に意識が始動したように、意識のうえでは経験される。0.5秒で、世界最強のコンピュータ(つまり脳)は1,100万ビットの感覚情報から10~50ビットの意識を生み出し、その過程の痕跡を消す。

手を伸ばして物を取ることを決めたと思ったときにはすでに脳が活動しているのだとしたら、人間に自由意志があるとは言いがたい。しかし決意を意識してからそれが実行に移されるまでには、0.2秒の余裕がある。つまり意識は禁止権を持つ。律法学者のヒレルはキリストより50年早く「自分が人からされたくないことを、人にしてはならない」と言った。しかし、人間は意識と無意識が対立する不快なときにしか自由意志を持たないのだろうか。それとも気分のいいときにも自由意志はあるのだろうか。それは誰の自由意志なのか。

第十章 マックスウェルの「自分」

サッカー選手はプレーするとき、意識を働かせていない。だがサッカーに通じている人なら、ラウドルップのような選手が絶妙のパスをするとき、すばらしい独創的な精神作用が頭の中で起きていないなどと言うはずがない。高度な計算がいくつも行われるのだが、意識には上らないのだ。

では自由意志はどうなるか。意識ある〈私〉は、自分が何かをするのかを決めることが全くできないのだろうか。

リベットの発見した遅れが示しているのは、行動のプロセスを始めるのは人間の意識ではなく、無意識であるという点だ。決めるのは本人だが、決める力を持っているのはその人の〈私〉ではなく、〈自分〉なのだ。

私たちは自分で思っているものをはるかにしのぐ存在だという事実、自覚しているよりはるかに多くの資質を持っているという事実、そして、気づいているよりも広い世界に影響をおよぼしているという事実と、向かい合わなくてはならない。

物事を行う能力を高めるための重要なテクニックとして〈過負荷〉を提唱するものがある。過負荷がかけられているということは、意識ある〈私〉にチャンスがないということ。自己を過大視することがなくなり、物事がずっと容易になる。祈り瞑想では、呪文や聖句を唱えているために、言葉のチャンネルがいっぱいになる。わずかしかない言語の帯域幅が、慣れ親しんだ言葉で占められてしまうので、思考の入り込む余地がなくなる。考えないようにすることも、瞑想における重要なポイントだ。あれこれ思索させられることのない、おなじみの事柄に言語のチャンネルを集中させることで、頭の残りの部分が、祈りや瞑想の対象に開放される

第十一章 ユーザーイリュージョン

意識が私たちに示す感覚データは、すでに大幅に処理されているのだが、意識はそうとは教えてくれない。意識が示すものは、生データのように思えるが、じつはコンテクストというカプセルに包まれており、そのカプセルがなければ、私たちの経験はまったく別物になる。つまるところ、私たちはキスされた、あるいは蚊に刺された、という体験をするのであって、皮膚に漠然とした刺激を体験してから、それを解釈する羽目になるのではない。

人が体験するのは、生の感覚データではなく、そのシミュレーションだ。感覚体験のシミュレーションとは、現実についての仮説だ。このシミュレーションを、人は経験している。物事自体を体験しているのではない。物事を感知するが、その感覚は経験しない。その感覚のシミュレーションを体験するのだ。

ユーザーイリュージョンという概念は、著名なコンピュータ科学者アラン・ケイが書いた論文に登場した。ユーザーイリュージョンはフォルダやゴミ箱などのメタファーであり、実際のコンピュータ内部の0と1など相手にしない。そのかわり、0と1が全体として何ができるかを問題にする。そう考えると、ユーザーイリュージョンは、意識というものを説明するメタファーと言える。私たちの意識とは、自己と世界のユーザーイリュージョンなのだ。

学習における〈私〉の役割は、無意識の〈自分〉に練習させること、稽古させること、あるいは、とにかく関心を向けさせることに尽きる。だが、〈私〉の真の力が発揮させられるのは、〈私〉が〈自分〉に対して謙虚さを示すときだけだ。なんといっても、〈自分〉のほうが帯域幅がはるかに大きいのだから、ずっと多くのことができる。意識は自分の限界を知ったとき、最高の存在となる。

第十二章 意識の起源

1976年、プリンストン大学のジュリアン・ジェィンズは『〈二分心〉の崩壊にたどる意識の起源』の中で、3000年前の人類は意識を持っていなかったと主張した。意識も、〈私〉という概念も、人間が自分のうちに心を持っているという認識もなかった。だからといって、社会の構造や人間の経験や言語がなかったわけではない。人間行動の認識の仕方が、今日とはまったく違っていたということ。当時の人々は、神々の命令によって行動したのであり、自らの衝動によって行動したのではない。彼らにとって、感情や欲求は、人間を通しての、神々の働きかけの結果だった。すべては神々の介入によって生じるものだった。人の心はに二分され、右脳で行われる非言語的活動はすべて、人の頭の中で聞こえる話し声の形をとって、左脳へ伝達された。統合失調症の患者がありもしない声を聞くのと同じように、古代人たちは自らの中で、何をなすべきかを告げる神々の声を聞いていた。社会秩序は、神々の声という形をとり、〈二分心〉を経て、個人へ語りかけることができた。

現代人が繁華街へ出かけるときも、人や車の往来はさほど気にせず、目的地に着いたらやることに気を取られているかもしれない。実際の移動行為は、おおむね自動的に行われる。意識は、どこか他のところにある。何か別の事柄についてたえず考えている点を抜きにすれば、現代人は意識を持たない人間と何ら変わりはない。

紀元前2000~1000年は困難な時代で、自然災害や戦争、人口の大移動によって、中東の諸文明圏で大変動と大混乱が起きた。昔ながらの知恵は時代遅れとなり、意識の起源となったというのがジェインズの仮説。

モリス・バーマンは、意識の消滅が西暦500年頃に起こり、500年以上続いたとする。鏡の使用が広く行き渡ったのはルネッサンス期、すなわち、個人の復活という刻印を押された時期であり、それはまた、近代の始まりでもあった。鏡に映った自分を見る、つまり外側から自己を眺めるというのは、とりもなおさず自意識〈私〉という意識のコミュニケーションだった。

バーマンは、私たちの文明で主流を占めるのは、外界とその「異質さ」の存在を否定する戦略だと主張する。自分の支配権は自分が持っているという考えを維持しようとする姿勢は、国家と常備軍の中に見られる。しかし、こうした外側の軋轢より、内側の軋轢こそ真のドラマ。人は肉体を持つが、その肉体を認知したがらない。

肉体は、意識には感知しようのない、世界とのつながりを持っている。肉体は、地球上の生命系との間で行われる生物学的な代謝の一部。そしてこの営みには、意識の力はおよばない。私たちは各自が地球上で果たしている役割を、肉体自体の持つ手段を通して変えることはできない。私たちは、一つの生命系の一部であり、あまりにその系に順応しているために、そこから逃れる自由はない。

■第四部 平静

第十三章 無の内側

1968年のクリスマスにアポロ8号が送ってきた地球の写真によって、私たちが抱いていた自己像が根本から覆された。人は、天空に浮かぶ恒星や惑星を、その外側から眺めてきた。自分たちの惑星について知っていたのは、地表から見える範囲の知識だった。突然、地球は天体の一つとなった。

人類は外側から地球を眺めて衝撃を受けた。私たちが居住する場としての惑星環境に対する自覚と認識が、目覚ましい勢いで地球上に広がり、1980年代の終りには、人類共通のものになっていた。

大気の組成、温度、海の塩分、陸地の岩石の侵食、雲の形成、太陽光線を反射する地表の能力など、地球上のじつに様々な要素を、生命体がいっしょになって調節している。そこでラブロックはマーギュリスとともに〈ガイア理論〉を創案し、地球は一つの生命体である、と主張した。

〈私〉は〈自分〉の中に根を下ろしている。〈自分〉はガイアの中に根を下ろしている。「私」は「自分」の中にある。「自分」はガイアの中にある。

宇宙は〈〉から始まった。宇宙論学者はビックバン直後の1秒にも満たない〈プランク時間〉までさかのぼって記述をしてきた。そのとき、時間と空間はたえず入れ替わっている。

生まれたばかりの宇宙をブラックホールと見なすなら、そのエントロピー、すなわちそこに隠れた情報量は、1ビットに等しい。この世界は、たった1ビットを使って記述しうるものから始まった。1ビットこそ、世界が持っていた唯一の隠された情報だ。残りの無秩序は、後から現れた。

1973年、アメリカの物理学者エドワード・トライオンは、〈プランク時間〉に存在していたもののような微小な初期宇宙は無から生まれたかもしれない、というアイデアを打ち出した。量子力学の不確定原理によると、ほんの一瞬だけなら微小なものが無から生まれることが、じつは許される、というのがその説明になる。小さければ小さいほど長く存在することができる。

トライオンは、宇宙のすべてのもの-物質、エネルギー、重力、膨張率、そして中間の計算のいっさい-を足すと、実際には合計がゼロになるだろう、と指摘した。宇宙にある正と負のエネルギー量は等しい。あくまで厳密に言えば、万象の総和は無である。

我々の考えている世界など、我々の周りには存在しない」ジョン・ホイーラーは、量子力学からわかった事柄に照らして、人間が知っていることをそう要約した。ホイーラーの書く図には大きなUの字が描かれている。一方の縦棒には目があり、それがもう一方の縦棒を観察している。宇宙は、無が鏡に映る自分の姿を見たときに始まった。

第十四章 カオスの縁で

量の増加は質の変化を生む。

人間は様々な公式を知っている。しかし、そんなことは何にもならない。現実の世界に到達するのはおびただしい計算が必要とされるから。科学者はわざわざそんな計算などしていられなかったので、あっさりと世界を無視し、自分たちの単純な公式に満足していた。

人工生命の研究では、十分な計算時間があれば、単純なレシピから複雑な振る舞いを導き出しうることを示す、膨大な例が調査されてきた。クリス・ラングトンが創造したコンピュータのモニタ上の人工アリは、単純なパターンに従っているのだが、集団になると本物のアリ塚さながらの複雑な全体的振る舞いを示す。十分な計算時間さえあれば、つまり膨大な量の情報をその過程において捨て去れば、単純な法則から複雑な振る舞いを導き出せる。

単純な法則が、十分に長い時間をかけて、あるいは、十分な数の構成要素の中で、こつこつと機能することが許されたとき、完全に新しい属性が現れる。突然ふっと姿を現し、見えてくる。すなわち〈創発〉する。

温度という属性は、ごくわずかな数の分子だけを観察していてもなんの意味も持たない。膨大な数が集まって初めて、温度は存在しうる。さらに高い次元では、分子は生命体のような、より大きな組織の一部を形成しうるが、個々の分子を見ても、それが生命体の一部分であることはわからない。生命とは物質の創発的属性であって、物質の構成要素の属性ではない

決定的カオス理論によれば、あますことなく定義された系でさえ予測不可能だという。ある系の法則が単純で既知のものだとしても、その系は初期条件に対して非常に敏感に反応する。もしこれからわずか数週の間に天気がどう変わるかを正確に知りたいなら、地球上の目下の天気を細部にいたるまで知らなければならない。ところが、現実には、大気中の全分子の位置と速度を正確に知ることなど、できるはずもない。

「物質系が固相と液相間の転移点もしくはその近辺にあるとき、計算が自然発生的に創発し、その物質系の力学を支配するようなことがある」とラングトンは書き、さらにこう付け加える。「これが意味するところで最も刺激的な点は、生命がその起源を相転移の付近に持つ可能性があるということかもしれない」。

複雑性はカオスの縁で増大する。たとえ世界の公式を知っていようとも、その公式から世界がどのようなものであるかを推測することはできない。たとえ変化に富む世界を簡潔な記述に還元できたとしても、その記述から世界を再構築することは絶対に不可能だ。

第十五章 非線形の線

自然は完全な線形ではないが、まったくの無秩序でもない。非動物界も含めて、自然は組織と複雑性に満ちている。情報に富んでいるが、その量には限度がある。自然は、現在ここにある情報、そしてそれをはるかにしのぐ量の、かつて存在していた情報、その両方にみちている。だから、自然を観察する喜びは尽きない。

情報社会がストレスに満ちているように思われるのは、情報が多すぎるからではなく、少なすぎるからだ。だから、情報社会では、仕事をするのに途方もない量の〈外情報〉を展開する必要がある。コンピュータ画面上のわずかな数字から、意味を読み取らなければならない。仕事の工程から詳細や実感が抜け落ち、無味乾燥な最低限の情報だけが提示される。その情報に意味を持たせるには、まず〈外情報〉をまとわせてやる必要がある。

第十六章 崇高なるもの

1980年代なかばまで、世界は核戦争による人類絶滅という愚挙の影に怯えていた。1980年代の前半を通じて、一般市民の間でも政治の世界でも、急激な意識の高まりが見られ、80年代のなかばを過ぎる頃、状況は激変した。両超大国が、軍拡戦争をやめることばかりか、真の軍縮を進めることにまで興味を示した。突如として、両国の安全は地上にある核兵器の数に反比例するという状況になっていた。それは、もはや核兵器が敵の先制攻撃を招く誘引でしかなかったから。

核兵器の歴史は「創発的政治」とでも呼べるものの一例。変化は誰も気づかないうちに、そして法案一つ議会を通ることなく起きた。1980年代の初めは、誰もが核兵器の問題に懸念を抱いていたし、誰もが何らかの行動をとっていたと言っていい。自分のしていることが十分だと思っている者は少なかったが、ほとんどみな何かしら行動を起こしていた。子供に注意し、集会に出かけ、運動を支援し、昼休みに話し合い、関連の本を読み、スポーツクラブで質問をした。一人一人の行為は、取るに足りない平凡なもののように思えた。そして、問題が突如として解決の方向に進み始め、私たちの努力が報われたのは断じてそれが原因でなかった。

だが、ことによると、それこそが原因だったのかもしれない。信じられないほど多数の人々が同時にこの問題を取り上げ、それぞれのやり方で何かをしようと試みたせいで、途方もない「相転移」が突然起き、核兵器がひどく奇妙な代物であり、軍事的に意味をなさないのが、誰の目にも明らかになったのかもしれない。

つまり、多くの人々が状況を改善しようと、自分にできることを行ったために、実際に状況が改善したのかもしれない。それぞれの要素の因果関係をたどって結びつきを明らかにすることはできないが、これは途方もない数のごく些細な行動の総合的な結果として説明ができるのではないだろうか。

こうしたうぶな考え方を擁護する方法は、こう問いただすことだ。核兵器の問題が解決した事実をそれ以外にどう説明ができるというのだろうか。全世界が1980年代末に環境問題に目覚めたことは? そしてまた、富める国の人々が貧しい国の人々と手をたずさえて生きていかなければならないと徐々に気づき始めたことは? 私たちが、まだこうして無事にいられる事実を、それ以外にどう説明できるのだろうか。

崇高な演奏においては、〈自分〉は〈私〉に許可をもらう。このような信頼関係があってこそ、演奏に生命が宿る。同様に、運動選手の妙技や、卓越した思索の過程、名匠の手になる作品でも、意識が制御できるよりはるかに多い、膨大な量の情報と経験が処理されている。

惑星が必要とするものと人が必要とするものは緊密な関係にある。環境危機は私たちの心の中に個人的な問題として立ち現れる。私たちは、自分の肉体と恐怖から地球の状態を理解できる。したがって、継続可能性のより高い文明への道は、私たちが進んで自分に注意を払うかにかかっている。あえてそうすれば、私たちが日々暮らす世界、つまり、私たちと切り離すことができない地球を、初めて大切にできる。私たちはまず、思い切って人間として生きることを学ばねばならない、とローザックは述べている。

人は意識の中にある情報も必要としている。それは、ある土地を歩くのに地図が必要なのと同じだ。だが、本当に大事なのは地図を知ることではなく、その土地を知ることだ。

歓喜や肉体的悦楽や愛、それに聖なるものや崇高なるものは、意識が考えるほど遠い存在ではない。なんの束縛も受けずにゲーデルの深みに浮かぶ人間の意識は、他者性におびえて自ら考えるほどの危機的状況にはない。わずか0.5秒前、私は〈自分〉だったのだ。天国は、ほんの0.5秒離れているにすぎない−ただし、反対の方向に。

まとめ

冒頭の言葉を繰り返します。

「意識が謙虚に自分の限界を認め、無意識と共存するならば、無意識に委ねられた崇高なる活動を生み出すことができ、世界を危機から救うことにも繋がっていく」

主観的に選択した文章の抜き書きにお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

これをきっかけに、本書を手にとって読まれる方が増えることを祈ります。

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